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    ホーム>見學と文化活動>見學コース>ルーヴル美術館の傑作

    見學コース ルーヴル美術館の傑作

    テーマ別見學コース - 所要時間:1h30 - 見學日: 月 水 木 金 土 日

    學校団體 一般団體

    site chinois / Escalier Victoire
    site chinois / Escalier Victoire

    ? 2014 Musée du Louvre / Philippe Fuzeau

    00イントロダクション

    ルーヴル美術館を最初に訪れると、しばしば、《ミロのヴィーナス》、《サモトラケのニケ》、《モナ?リザ》という、ルーヴルの三大貴婦人に出會うことになります。この見學コースをたどると、こうしたルーヴル美術館の傑作やその他の作品を鑑賞したり、もう一度見直したりすることができます。また、「傑作」という定義するのがきわめて難しい概念を問い直す良い機會にもなります。

    ルーヴル美術館が、フランス王室のコレクションを基に1793年に開館した際、過去の「偉大な様式」の復興を目指して、未來の蕓術家を教育するために、偉大な手本を提供するという明確な目的がありました。今日でも展示室には常に學生や模作の制作者がいるものの、美術館の実態は大きく変わりました。ルーヴル美術館には毎年、あらゆる國と文化圏から六百萬人近い見學者が訪れ、それに応じて様々な美術館の見方があります。しかし、ほぼ普遍的と言っていいほど、いくつかの「傑作」を人々がとりわけ熱心に鑑賞するのは、鑑賞者の國籍や文化を問わず、それが心を打つからでしょう。
    紀元前4世紀のギリシアの哲學者プラトンは、いかなる蕓術家も「理想美」に到達することはできないと記しました。蕓術家は常に、この至高の、時を超越した美という問題に直面し、その時代と個々の天分を反映した解決法を提示してきました。こうした蕓術家の応えのうちいくつかは、今日なおその反響が見られます。
    しかし、19世紀になって、蕓術作品は新しい役割を引き受けるようになり、「傑作」は必ずしも、目を楽しませるための美的な抽象概念である「美」の同義語ではなくなりました。いくつかの作品には、蕓術に関するこの新しい考え方が反響しており、多くの點で現代社會における蕓術作品の地位やあり方を予告しています。
    この見學コースは、時代順ではなく、鑑賞者が自然と足を止めるような作品にスポットを當てるものです。

     

    次の作品までのルート :まず、シュリー翼の方向にお進みください。チケット確認の後、中世のルーヴル宮の壕に向かってまっすぐお進み下さい。壕に入る前に、左側に二つの模型があります。下側の模型によって、現在位置を確認することができ、上側の模型は、十四世紀のシャルル五世治世下のルーヴルを示しています。

     

    中世のルーヴルフィリップ?オーギュストとシャルル5世のルーヴルの堀跡(12-14世紀)
    中世のルーヴルフィリップ?オーギュストとシャルル5世のルーヴルの堀跡(12-14世紀)

    ? Musée du Louvre / A. Dequier

    01フィリップ?オーギュストとシャルル五世治世下のルーヴル宮の壕の遺跡

    1200年頃、その三世紀前のヴァイキングの侵攻と同様、ノルマンディー地方からのイギリスの侵入を恐れたフランス國王フィリップ?オーギュストは、パリを取り囲む城壁の前に砦を建造しました。パリの西の入り口を守るこの城砦は、十四世紀のシャルル五世の治世下で、第二の城壁が建造されてパリが拡大し、こうして都市防御のためのあらゆる機能がなくなって初めて、より住みやすい城館になりました。壕の入り口の大模型は、ルーヴル宮のこの第二段階を表わしています。跳ね橋のある正面は、東の入り口に當たり、右側を向くと壕の遠くに見えます。跳ね橋の橋腳は保存されており、それに付屬して建造された四角形の塔は、シャルル五世が付け加えたものです。土臺の小さな開口部分は、壕に流れ込む便所の穴です。
    フランソワ一世は、ルーヴル宮をルネサンス様式で建造することにしました。天守は、地面のレベルまで取り壊され(最後の跡は、17世紀のルイ十四世の治世下に消え去ります)、壕はこうして土で埋められました。この壕は、方形広場の下で7メートルの高さにわたって完璧に保存され、1983年から1985年にかけての発掘で日の目を見ました。この壕は、1989年のピラミッドのお披露目以來、公開されています。スフィンクスの階段の前の右側に最近つくられた通路によって、天守の下と、今日地下に位置するサン=ルイの間にアクセスできます。

    次の作品までのルート :
    エジプトのスフィンクスがあるところまで階段を上って下さい。通りすがりに、砦のブロックに付けられた石工の印(ハート型、十字架、三角形、あるいは釣針型)に著目して下さい。

     

    タニスの大スフィンクス
    タニスの大スフィンクス

    ? 2003 Musée du Louvre / Erich Lessing

    02タニスの大スフィンクス

    この花崗巖のスフィンクスが、古代エジプト美術部門の入り口にあります。左側の階段を上ると、テーマ別のコースが始まり、その後2階では年代順のコースが続きます。古代エジプト美術部門の最後にあたるローマ時代とコプトのエジプトは、ドゥノン翼で展示されています。
    シャンポリオンは、1822年にヒエログリフ(象形文字)を解読しました。次いでシャンポリオンは、1826年にルーヴル美術館に古代エジプト美術部門を設立するにあたって、シャルル十世にこの彫像の精華を含む個人コレクションを取得してもらいました。
    ここでスフィンクスには、猛獣であり太陽の象徴でもあるライオンのイメージと、頭巾(ネメス)、頭を持ち上げたコブラ(ウラェウス)、つけひげとカルトゥーシュ(楕円形王名枠)に記された名のおかげで王と分かるイメージとが混在しています。専門家は、もともとギリシア語である「スフィンクス」という言葉は、「生きた似姿」を意味する古代エジプト語「シェセプ=アンク」に由來すると考えています。それゆえ、エジプト美術は、それぞれの表現に潛在的に生命がそなわっている魔術的な蕓術として理解されなければなりません。このスフィンクス以上に、古代エジプト美術部門の入り口にふさわしい守護神はいないでしょう!
    エジプト美術は、永遠であることを目指し、人間のためにはつくられていないように見えるため、圧倒的です。実際、4千年以上前のこうしたイメージは、常にきわめて厳かな印象を與えます。これほど硬い石にこうしたモニュメンタルな作品を彫り上げることは、技術と忍耐の賜物、傑作と言えるでしょう。

    次の作品までのルート :
    スフィンクスに背を向け、壕に向かって、左側の階段を上ると《ミロのヴィーナス》の背後に出ます。

    アフロディーテ、通稱「ミロのヴィーナス」
    アフロディーテ、通稱「ミロのヴィーナス」

    ? 2010 Musée du Louvre / Anne Chauvet

    03《アフロディーテ》、通稱《ミロのヴィーナス》

    ギリシア美術を研究することほどフラストレーションを覚えることはありません。実際、ギリシア美術のオリジナルはあまりにも少なく、元々の狀態で保存されていることはまずないからです。この彫像に腕があるだけでなく、裝身具や色がほどこされている狀態を想像できますか?《ミロのヴィーナス》、あるいは1820年にこの彫像が発掘された島の名前にちなんで《メーロスのアフロディーテ》と呼ばれるこの彫像は、ギリシア美術の重要なオリジナルの一つです。この彫像の上半身が裸體であることから、ローマ神話ではヴィーナスと呼ばれる、海から生れた愛と美の女神アフロディーテだと分かります。
    この彫像は、細部の様式的な特徴から、紀元前100年頃に制作されたものと推定されます。この作品は、その引き伸ばされたシルエット、三次元空間の中での立體的な構成、官能的な裸體表現から、古代ギリシア史の掉尾を飾るヘレニズム期(紀元前323‐31年)のものと考えられています。
    しかしながら、感情を表わさない冷ややかなこの顔は、仮面をつけているような感じを與えます。時と感情を超越したこの顔は、巧みなプロポーションで構成されています。この「ギリシア型橫顔」では、顔は鼻の長さ3つ分で、額と鼻とが一直線につながっていますが、もちろんギリシア人の実際の顔がこうだったわけではありません!蕓術が表現すべきなのは、神々の美や、プラトンのイデアの美であって、現実の世界ではないのです。アラン?パスキエによれば、「常に私たちのものである表現方法において美を表わしている」このイメージは、「美」を永遠に追求することに対する美しい応え、要するに時を超越した「傑作」となっています。

    次の作品までのルート :
    《ミロのヴィーナス》に背を向けて、目の前にある回廊を橫切って下さい。右側にカリアティード(女像柱)の展示室を見ながら、19世紀には美術館の入り口だった円屋根の建物を橫切って下さい。踴り場のある階段を上がると、《サモトラケのニケ》に至る大階段の下に著きます。

     

    サモトラケのニケ
    サモトラケのニケ

    ? 2014 Musée du Louvre / Philippe Fuzeau

    04《サモトラケのニケ》

    ギリシアのオリジナル作品は、おそらく地震によって破壊されたものと思われますが、この彫像は、1863年に、エーゲ海の北東にあるサモトラケ島で、多數の破片に砕かれた狀態で見つかりました。右側の翼は、唯一殘存していた左側の翼を基にした石膏のコピーです。足元のセメントの臺座も、近代に作られたもので、この彫像は、船の甲板を表わした彫刻に直接據え付けられていたと考えられています。この彫像は、丘の上の小堂に斜めに取り付けられていたため、右側はあまり念入りに彫り込まれていません。
    「勝利」は、ギリシア語では「ニケ」と言いますが、この《ニケ》は、船の甲板で翼を広げた瞬間の姿で表わされています。「ニケ」は、その船に神の恩寵をもたらすとされています。この彫像の右手が1950年に見つかったことにより、元の身振りを再現することができるようになりました。《ニケ》はその手を広げており、「勝利」を予告しています。
    まさにヘレニズム期の好みと言える派手なポーズによって、島に近づく船は遠くからでも《ニケ》を望むことができました。プロポーション、身體の形態表現、風にはためく衣襞の扱い方や、きわめて劇的な豊かな動きは、當時の寫実性の追求をも物語っています。
    研究者は、この彫像は、紀元前190年頃に、ロドス人が海戦での勝利を神に感謝するために奉納したものと考えています。
    マルローは、この彫像が運命のいたずらによって、一部が欠けた狀態になったことをむしろ歓迎し、それゆえこの作品は、西洋美術において時を超越したイコン、すなわち「運命の傑作」となったと述べています。

    次の作品までのルート :
    《サモトラケのニケ》に背を向け、踴り場まで階段を下りて、左側あるいは右側の階段を、赤い壁の大きな展示室に向かって上ってください。「赤い展示室」に入ると、最初の部屋には、新古典主義運動の絵畫が展示されています。左側には、《ホラティウス兄弟の誓い》が見えます。

     

    《ホラティウス兄弟の誓い》
    《ホラティウス兄弟の誓い》

    ? 2009 Musée du Louvre / Erich Lessing

    05《ホラティウス兄弟の誓い》

    こうした作品は、學校の教科書で見たことのあるイメージを変わることなく思い出させてくれます。教科書では、フランス革命は、偉大な感情と堂々たる雄々しさを表わしたこうした絵畫によって語られているものです。しかし、実際にこの新古典主義様式の誕生を促したのはルイ十六世でした。ルイ十六世は、神話が鑑賞者の教化のためというより、女性の裸體を描くための口実になっていた先代ルイ十五世の時代の女性的で軽快な精神に反発したのです。革命家は、祖國のための究極の犠牲を稱賛し、古代への回帰において、こうしたイデオロギーに役立つ古代ローマ史上の重要なエピソードを探しました。畫家ジャック=ルイ?ダヴィッドは、こうした「新古典主義」運動の総帥となり、この分野における傑作を殘したのです。
    ホラティウス三兄弟は、父の前でローマに対する忠誠を誓いますが、アルバの町でのクリアトゥス兄弟との決闘を制して帰郷したのは唯一人でした。このホラティウス兄弟の生き殘りは、実の妹カミッラを殺害します。というのも、カミッラは、クリアトゥス兄弟の一人と婚約しており、その婚約者が死んだことを知って泣き崩れたからです!
    この絵畫の場面は、共和國時代の家宅の質素な內裝の中で、きわめて簡素に構成されており、舞臺のように照らし出されています。男性人物像を構成する直線と強い暖色系の色は、諦めた様子で打ちひしがれている女性の一群を構成するしなやかな線とより明るい色合いとは対照をなしています。筆の跡を殘すことは「俗悪」であり、ここでイリュージョン的な空間をつくり出す技法の完璧さは、「スパルタ人に話すように描く」というダヴィッドの配慮に呼応しています。それは、2000年以上前に撮られた瞬間寫真のような、ほとんど感覚を狂わせかねない印象を與えます。

    次の作品までのルート :
    反対側の壁には、同じくジャック=ルイ?ダヴィッドの《ナポレオンの戴冠式》があります。

    Sacre de l'empereur Napoléon Ier et couronnement de l'impératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris, le 2 décembre 1804
    Sacre de l'empereur Napoléon Ier et couronnement de l'impératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris, le 2 décembre 1804

    ? Musée du Louvre/E. Lessing

    06《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》

    ナポレオン一世は、パリのノートル=ダム大聖堂で1804年12月2日に挙行された自身の戴冠式を不滅のものとするため、ダヴィッドにその絵を描くよう依頼しましたが、ダヴィッドはこの巨大な作品を仕上げるのに3年を要しました。戴冠式を機に、大聖堂の內陣も、トロンプ=ルイユ(だまし絵)で描かれた木のつくりによって新古典主義様式に改裝され、威風堂々たる場面において各々の人物がその役回りを演じる舞臺となったのです。
    あらゆる政治的プロパガンダの作品と同様に、この作品でも実際の様子をいくつか腳色しているのは明らかです。例えば、中央の王座には皇帝の母が描かれていますが、息子に怒っていた母は実際にその日には出席していませんでした。皇帝の首席畫家として駆け引きに長けていた畫家の筆によって、実際より大きく細身に描かれたナポレオンや、若返ったジョゼフィーヌの理想的な美もそうした腳色です。結局、皇帝が自分で戴冠するという身振りほど挑発的ではない、皇妃ジョゼフィーヌを戴冠する場面が好まれたわけですが、ナポレオンの背後に座している教皇ピウス七世は、さして納得した様子もなくジョゼフィーヌを祝福しています。
    巧みな照明効果によって、こうした主要人物たちが、総勢150人の肖像の中から浮き彫りにされ、寶石の輝き、布の滑らかさ、ビロードのクッションの柔らかさといったものが映えています。ダヴィッドは、高位高官の豪奢の誇示を不滅のものにする現代の寫真の先駆者であり、こうしたニュースにおいては、豪奢は大衆に夢を見させる役割を果たしています。しかしながら、こうした主要人物の中で最も生き生きしているのはおそらく、畫面右側で赤い衣裳を身にまとったタレイランで、これ見よがしの誇示に対して、皮肉な視線を投げかけているように見えます。

    次の作品までのルート :

    展示室の奧に向かってお進み下さい。向かい側の二つの扉の間に《グランド?オダリスク》が見えます。

    《オダリスク》
    《オダリスク》

    ? 2005 Musée du Louvre / Angèle Dequier

    07《オダリスク》、通稱《グランド?オダリスク》

    ここでアングルは、裸婦という古代のテーマをオリエントの世界に移し換えています。アングルは、夢の中でしかオリエントを旅したことがなく、オリエントは、異國風の內裝の中で裸體をさらけ出したハーレムの女性―この作品の標題―の官能的なイメージを描く口実でした。アングルは、晩年に至るまで、《トルコ風呂》のように、オリエンタル風のテーマと、最もお気に入りの主題の一つである裸婦像を描き続け、ラファエッロやマニエリスムの蕓術家からペルシアの細密畫家に至るまで様々な影響を自らの絵畫に取り入れました。
    アングルは、他の作品に見られる技法や古典古代への関心において、師のダヴィッドと同様に古典主義的な蕓術家と言えますが、素描における線描や官能的な曲線に優位を與え、必要に応じて身體の解剖學的な現実をデフォルメすることによって、古典主義的傾向からは離れています。実はこのオダリスクは、脊椎の骨が三つ余計に多いのです!それと同様に、右胸と左腳は、他の身體の部分に奇妙な具合にくっついています。こうした身體のデフォルメとは対照的に、重々しい青の衣襞、ターバンや水煙管は、イリュージョン的なやり方で描かれています。
    この空想的な融合の産物に完全に當惑した當時の批評家は、アングルの特異な様式を軽蔑したものでした。そのかわり、アングルは、近代蕓術家に顕著な影響を與えることになり、その中でもピカソは、アングルの創造性と身體を自分のやり方で再構成するやり方を巧みに取り入れます。
    さらに、青と金色のむしろ冷たい調和によって、このイメージは現実から引き離され、蕓術家の見た純粋な幻影となっていませんか。

    次の作品までのルート :

    次の展示室、ドゥノンの間と進み、《モナ?リザ》の展示室に入ってください。目の前に、ルーヴル美術館の最も大きな絵畫であるヴェロネーゼの《カナの婚宴》が見えます。

    《カナの婚禮》
    《カナの婚禮》

    ? 2010 Musée du Louvre / Angèle Dequier

    08《カナの婚宴》

    この巨大な絵畫は、ヴェネチアのサン?ジョルジョ?マッジョーレ修道院の食堂を飾っていました。素晴らしい色彩家であり、多數の人物を配した巨大な場面を描く才で名を成したヴェロネーゼは、ここでカナの婚宴におけるキリストの最初の奇跡の場面を描くことにしました。ヴェロネーゼは、鑑賞者を場面に引き込むような遠近法を用い、聖書のエピソードを16世紀當時の豊かなヴェネチアに移し換えています。婚宴の際に葡萄酒がなくなった貧者の家で起こるとされるこのエピソードに、壯麗な舞臺を與えている布の光沢、豊かな寶石、銀皿と鍍金した皿、パッラーディオに想を得た優美な建築に著目して下さい。中央を占めるキリストの右側では、マリアが見えないグラスを手にして、葡萄酒がなくなったことを確かめています。前景右側では、黃色い衣裳をまとった人物が、葡萄酒に変わった水を大壷から注ぎ、その背後にいる二人の人物がこの奇跡を確認しています。緑色の衣裳をまとった男性は、左側の円柱の前にいる新郎新婦に駆け寄り、どうして最上の葡萄酒を婚宴の最後に取っておいたのかと尋ねています。<br  />この作品は、縦方向に、肉をぶつ切りにする肉屋、音楽家のテーブルの上にある砂時計、骨をしゃぶる犬といった象徴的なイメージに沿って、別の読み方をすることができます。すなわち、そこには「子羊の犠牲」の予告、そしてこの奇跡によって真の性質を現わしたキリストの死が読み取れるのです。しかし、この犬たちは、忠誠の寓意、信仰によって雲を払うキリスト教徒の寓意でもあります。

    次の作品までのルート :

    それでは、振り返って《モナ?リザ》をご覧下さい。

    《フランチェスコ?デル?ジョコンドの妻、リーザ?ゲラルディーニの肖像》
    《フランチェスコ?デル?ジョコンドの妻、リーザ?ゲラルディーニの肖像》

    ? RMN-Grand Palais (musée du Louvre) / Michel Urtado

    09《フランチェスコ?デル?ジョコンドの妻、リザ?ゲラルディーニの肖像》

    フランソワ一世が1518年に取得し、當時の蕓術家に稱賛されたこの《モナ?リザ》が、一躍有名になったのは20世紀のことでしかありません。それはこの絵の素晴らしさもさることながら、とりわけ1911年に盜難に遭ったというその「波亂萬丈の運命」によるところが大きいのです。
    レオナルドは、ほとんど魔術とも言える、まぶしいばかりに美しい絵畫技法を駆使し、上塗り(ほぼ透明に近い、非常に薄くのばした色の層)によって形をつくり上げ、色をぼかすこと(スフマート)によって巧みな明暗効果を生み出しています。レオナルドは、褐色から青色に移り変わる空気遠近法を用い、空気の密度によって、大地と水を表わす抽象的な風景を描き出しました。ニスが古くなって色調が暗めになってしまったことは殘念です。かつて袖はサフラン?イエローだったのいうのに!
    このモデルが誰であるかということをめぐっては、時に突飛な仮説も生まれ、このモデルが実は男であるという説さえあります!しかしおそらくこの絵は、1503年から1507年にかけてフィレンツェで描き始められた、モナ(「夫人」の意)?リザ?ゲラルディーニ?デル?ジョコンドの肖像であると考えられています。「ジョコンダ」という言葉には「幸せな」という意味もあることから、「モナ?リザ」の微笑は、「ジョコンド夫人」の名を象徴しているとも言えます。
    このきわめて薄い(12 mm)ポプラの板にただ、その時代の最も重要な肖像畫が描かれているわけですが、《モナ?リザ》は、富裕なブルジョワのこれ見よがしなイメージを表わしているのではありません。もっとも、「モナ?リザ」のポーズや身なり、そしてまつ毛や眉がないことが、その身分の高さを示す優美さにふさわしいとは言えます。この作品は、とりわけ理想的な肖像畫であり、身體の美に魂の美を見る、プラトン的な時間の追及を反映したものです。

    次の作品までのルート :

    ドゥノンの間に戻り、ロマン主義運動とその巨匠テオドール?ジェリコーとウジェーヌ?ドラクロワの作品を展示した左側の部屋にお入り下さい。ロマン派の絵畫は、何よりもまず鑑賞者の感情に訴えかけようとします。左側の少し先に《メデューズ號の筏》が見えます。

    《メデューズ號の筏》
    《メデューズ號の筏》

    ? 2010 Musée du Louvre / Angèle Dequier

    10《メデューズ號の筏》

    ロマン主義宣言とも言えるこの絵畫は、1819年のサロンですさまじいスキャンダルを巻き起こしました。ここで蕓術家は、初めて注文なしに同時代の出來事を描き、歴史畫向けの大畫面に無名の人々を描き出したのです。
    今日の蕓術をしばしば活気づける批判精神の先駆であるこの主題は、その當時の政府を辛辣に批判するものです。1816年のメデューズ號の遭難は、実は政治家の後押しで船長の地位に舞い戻ってきた者の無能さによって引き起こされたのです。救命ボートのない149人の船員は、唯一つの筏にぎゅうぎゅう詰めになって12日間漂流し、虐殺と狂気と人喰いを免れて生き殘ったのはたった15人だけでした!
    角から見上げられた筏は非常に不安定に見え、二本の対角線にドラマが凝縮されています。一本の対角線は、筏を今にも飲み込みそうな大波に視線を導き、もう一本の対角線は、メデューズ號の船員を救助するアルギュス號のごくわずかなシルエットに向けられています。こうした斜めの大構図は、おそらく同僚に貪られた男の上半身に表わされた悲劇や、死んだ息子を抱えて途方に暮れた男の落膽、突然立ち上がる瀕死の者、助けてくれるかもしれない救助者に向かって夢中になって合図を送る者の希望といった、あらゆる心理狀態を思い起こさせます。しかし、ジェリコーが描き出したこの局面では、この恐怖の均衡にかろうじて支えられた筏がどちらの側に傾くかを誰も知りません。
    ここでは、この心を揺さぶる話の唯一の英雄は人間性であり、それこそが今日でも私たちを感動させるのです。

    次の作品までのルート :

    展示室の奧に向かって進むと、カフェのある階段の踴り場に出ます。左側の廊下を進み、展示室10と11を橫切って下さい。そうすると、アンリ四世が建造したグランド?ギャラリーに出ますので、すぐに右に曲がって下さい。その奧には、《モナ?リザ》の展示室があります。

    Le 28 juillet 1830 : la Liberté guidant le peuple
    Le 28 juillet 1830 : la Liberté guidant le peuple

    ? Musée du Louvre, Dist. RMN-Grand Palais

    11ドラクロワ《1830年7月28日:民衆を導く自由の女神》

    この作品は、とりわけオリエンタリズ(東洋趣味)の主題を好んだドラクロワの畫家活動においては、例外的なものです。同時代の出來事をもとにしたドラクロワの作品はまれなのです。

    1830年7月、三日間続いた革命の騒亂「栄光の三日間」によって、シャルル10世は王位から追放されます。しかし、7月28日、共和政の再建をめざす民衆の試みもむなしく、ルイ?フィリップが王位に就くことになります。ここには、その日の民衆蜂起が、華々しく描かれています。死骸が積み重なった巨大なバリケードの後ろにはパリ?ノートルダム寺院の塔が描かれているので、舞臺がどのあたりに位置するの かがすぐわかります。バリケードのてっぺんに立ち、フリジア帽をかぶり手に銃を持っているのは、共和政のアレゴリー(寓意)である女性です。彼女は三色旗を振りかざして、自分に続くよう民衆を促しています。それぞれの人物像の身にまとった服裝からは、さまざまな社會階層を見て取ることができます。その中には、パリの下町の典型的な腕白少年として描かれた男の子がいます。この少年は、のちにヴィクトル?ユーゴーの作中に登場することになるガヴロッシュ少年、すなわち、その若さにもかかわらず、自分の運命を自ら選びとろうとする政治的良心を、まさに象徴的に描いたものなのです。

    この力強く革新的な絵は、1831年のサロンにおいてスキャンダルを巻き起こします。ドラクロワはその奔放なタッチによって、共和政を象徴的なイメージとしてではなく、うすよごれて、肌をはだけた、しかも、わき毛すら生やした(!)実際の女性として描いてしまったのです。裸體というものは、すべすべした、寓意的なもの以外、許容されていなかったというのに!

    ルイ?フィリップ王は自らの即位を記念するためにこの絵を購入したものの、結局、この體制転覆的な作品が內包する批判が自分へと向けられることをおそれ、絵を隠しておいたのでした。

     

    次の作品までのルート:展示室の奧まで進むと、大階段があります。階段を降りて、イタリア?クレモナのスタンガ宮殿の入口を飾っていた壯麗な門をくぐると、ミケランジェロの二體の彫像の裏に出ます。

    《奴隷》
    《奴隷》

    ? 2010 Musée du Louvre / Rapha?l Chipault

    12《囚人》

    イタリア以外で所蔵されているミケランジェロの作品は非常に稀ですが、ルーヴル美術館は、フィレンツェのロベルト?ストロッツィからフランス國王に贈呈されたこの二つの堂々たる彫像を所蔵しています。ロベルト?ストロッツィ自身は、この二つの彫像をミケランジェロから自ら受け取ったのです。この二つの彫像は、フィレンツェのアカデミア美術館に所蔵されている他の彫像とともに、教皇ユリウス二世の墓を飾るために制作された一連の彫刻の一部です。元々巨大であったこの構想は、幾度か変更され、最後にはきわめて縮小された規模のものになってしまいました。この作品は、敗者の受難の象徴、身體に鎖でつながれた魂の象徴、あるいは教皇の権威に従う國家の象徴と、様々な読み方が可能です。また、ここでは、蕓術の重要な庇護者(ユリウス二世は、システィーナ禮拝堂の裝飾事業の出資者でした)の歿後に自由を奪われた諸蕓術という読み方も可能でしょう。というのも、瀕死あるいは眠っているように見える奴隷の足元に猿がいるからです。猿は、猿が人間をまねるようなやり方で、現実を模倣する絵畫を表わしている寓意なのです。
    これらの作品は、彫刻の鑿(のみ)の跡を多數とどめていることから、未完成であったことが分かります。他の彫刻家とは逆に、ミケランジェロは、概して型なしに塊を正面から背面に向かって彫り進めました。反抗した奴隷の手が、大理石にいまだ囚われているように見える様に著目して下さい。直接石材に彫り込む素晴らしい蕓術家だけが、あえてこうした大膽なやり方ができるのです。自身の制作を誇示するルネサンスの蕓術家ミケランジェロは、いつ鑿を止めるかを自身で選ぶ、創造者の自由をここで要請しているのです。

    次の作品までのルート :

    階段を下りると、ピラミッドの下のナポレオン?ホールに再び出ます。

     

    執筆: :

    サンドリヌ?ベルナルドーRMN解説員


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